中国なのかインドなのか
第3話では、自社ブランドTRFを立ち上げて、社員を雇えるようになりました...
という話。
両親と数名の社員で日常業務が回るようになると、海外志向の私が、やっと海外出張へ行かれるようになった。ミレニアム騒動のあったころは、2000年きっかりになるとシステムダウンで飛行機が墜落するとか、バカげたことを真剣に世界中が議論していた。
当時は、これからは中国が来るのかインドなのかと思いを巡らし、初めてインドに行ったのが2000年。ムンバイでインド初の国際的ねじの展示会へ行ってきた。良くも悪くも、「インド」ハンパね~ぞ...という感じだった。マレーシアとシンガポールの元同僚が自分で会社を立ち上げると立て続けに連絡があって、どちらにも一部出資した。サイマブランドのねじの販売活動を一緒に開始したのもこの頃だ。
中国も抑えておくべき国だったので、出張に行き始める。親しくしていた、台湾人達がものすごい勢いで大陸中国へ渡りだしていたので、情報だけは持っていたが、自分で見るべきだと思った。上海には虹橋空港しかなくて、あの有名な上海の空港が小さくて古くてびっくり。南京までの列車(電車は当時ない)も、バックパッカー向けの本で読んだ通りの凄みのある空気感。巨大なねじ工場を回ると、台湾から世界へ輸出されているねじの仕事は、全部中国製品になってしまうなと感じた。改めて、大きな数量のねじの仕事はサイマで行ってはダメと確信。
台湾メーカーと一緒に、アメリカでの展示会に同行していたのもこの頃だ。オハイオ州・コロンバス、ネバダ州・ラスベガスのファスナー・ショー。シカゴでも工具系が多かったが展示会をやっていた。
ヨーロッパは、ドイツ・シュツットガルトでの展示会に出展し始めた。デュッセルドルフのワイヤー展などでも世界のねじ業界を体感できた。ドイツで出展を重ねていると、「やー、Tak Saima~」と昔のスイス人達がポツポツと会いに来てくれた。息子がさ、娘がね...同じ会社で働いてるよ。孫がね....私は海外子会社・日本法人のスタッフに過ぎなかったが、当時の本社役員や部長クラスの人が、手を挙げながら近づいてきてくれると、うれしかった。
タイ・バンコク近郊には既に多数の日系企業が進出していたが、まだまだ増加しそうだったのでバンコクも抑えておかないと...インドンシア、フィリピン、ベトナム...定期的に抑えておくべき国は沢山あるなと感じながら、国際派ねじ屋さんを満喫していた。業界紙の金属産業新聞社さんから、コラム掲載の話を頂いたのもこの頃の話。
第5話は、海外事務所の立ち上げの話、2000年ころの中国の話です。